【猫にあって人間にないもの】
ピョロワーちゃんからこんな質問が来たな。
「健康を考えたごはんを買ってるけど不満はないか…なんで現れたんや…うちにきて幸せか…」
これを猫に聞きたいということや。これはな高菜先生の得意分野【哲学】のお話や。
哲学はエビデンスとか科学が重要視される現代においてはよくわからん学問やな。死後の世界について考えたり、時間の存在について考えたり。
でもな、正解ばかりが大切ではないねん。なんでも「絶対とは言い切れない」ところもあるやんか。
でな「ねこちゃん、あなたは私と暮らして幸せですか?ご飯はこれでよかったですか?」みたいな、会話が成立しない猫に対する疑問も当然出てくるな。
まあ高菜先生は天才やからコミュ力ハンパないけど、普通の猫は「ニャー」か「シャー」しか言わんからな。ガチで何が言いたいのかサッパリや。
けどこれはな、普段でもあるやんか。
「このプレゼントでいいのか」とか「料理の味付けはこれでよかったのか」とかな。
それは自分自身が「うわ、微妙なプレゼント」とか「味うっす」とか事ある毎に思うからこそ、不安になってしまうんや。
決して自分と相手はイコールではないけど、この世に完璧がないことを知っているからこそ、自分のやっていることにも疑問がつきまとってしまう。
これはものすごく人間的な悩みなんやで。
猫は人間のことを「こいつ何考えてるかわからん」とかは思ってないんや。というか、正直言って「何も思ってない」というのが答えやな。
人間は誰かに助けてもらったら「ありがとう」と思うし、裏切られたら「ムカつく」みたいに思ってまうやんか。
けど猫はなんも思わんねん。
というより、猫は【自然的】なんや。猫と同じくあらゆる自然もいちいちムカついたりはしない。
例えばな、猫は木と一緒や。
山火事が起こってそのへんの木が燃えたとき、木はどういう感情になるのか。
どうもならないんや。
木はそこに生えてるから燃えてしまっただけや。けどそれは理不尽でも不幸でもないんやな。
贖うことが絶対にできない宿命、それが”自然”ってものや。
猫も例えば貧困国に行けばゴミの山を漁って食べてる猫がたくさんいるな。長生きできない猫もたくさんいる。
でもそれは必然や。例えば砂漠で木は生えないし、海がない場所で魚は生まれないやんか。
それが”ありのまま”ってことなんや。
そこに幸も不幸も良いも悪いもなく、感情もない。
だからな、猫は何でもいい。
エサが出てきたら出てきたでええ。雨が降ってたらそれはそれでええし、外で生きるのもそれはそれで。
重要なことはな、猫は環境を”選ぶことは出来ない”からこそ自分の置かれた環境を”ありのまま受け入れる”ということなんや。
文句は言わんし、納得もする。
「このエサやっとけば幸せだろ」とキミが思えばそれを受け入れるし「冬はエアコンと電気毛布つけてあげよう」と思えば猫はそれを受け入れる。
「こうすると良いのではないか」とかな「こんな感じにすると猫が喜びそう」とかな、こういうのがとても人間らしいな。
それを人は美徳とよび、それが形になったものを文化と呼ぶんや。
魚も木も猫も文化の対極にあるもので、それすなわち自然そのものであり、すなわち美であり、感情なんや。
人間は工夫して物を作り、文化を作ることで感情をコントロールする生き物なんやけど、その根底にあるものは【かっこいい】とか【こうなりたい】とか、つまり理想や願望。
これは想像力やな。
かっこいいとかってのは、いわば【不自然なもの】なんや。
髪を染めるのも、アメリカンバイクに乗るのも、自然ではないやんか。
想像から生まれるそれらは、必ず不自然なものに対して生まれるようになってんねん。
そこがあらゆる自然界の動物と一線を引いているところなんや。
もはや人間は同じ動物とは思えんし、宇宙人かもしれんな。
自然的な美とは、それそのものの姿や形や。葉っぱの模様、岩の形、猫のフォルム。存在そのもの。
ありのままが美であり、感情であり、幸福なんや。
猫にあるもので人間にないものは【自然的な美】
人間にあるもので猫にないものは【創造と想像】
この食い違いに悩む必要なんかないんや。
猫を拾ったから、猫にとって良さそうな環境を作ってくれたら猫はそれをただ受け入れる。
キミがそうしたいからするんやろ?
キミがそれで満足ならば、猫も満足なんや。
キミがそれで「猫がぬくぬくゴロゴロできてて幸せそう」と思えばキミも幸せやんか。それでええんや。
猫が長生きすることでキミが幸せになるならもはやベストちゃうか。
だからな、まあエサもなんでもいいわ。
ワイの場合は最高級ちゅ〜るがいいけどな。
「なぜ庭に現れたのか?」
それは木がそこに生えてんのと同じや。必然であり、そういう運命なんやろうな。